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 小さな町にもかかわらず鞆には19ものお寺があります。その多くが西の山すそに壮大な屋根を一列に並べています。その中の静観寺(じょうかんじ)の門前に山中鹿之助の首塚があります。山中鹿之助というのは、毛利氏に滅ぼされた尼子氏の再興に力の限りを尽くした、戦国時代の有名な武将です。その悲しくも雄々しい奮闘の物語は、昭和の初期に小学校の国語の教科書に載せられていました。

羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)を頼り、姫路の北方の上月城に立てこもりますが、毛利輝元の大軍に囲まれてしまいます。秀吉は折悪しく謀反を起こした三木城の攻略に手一杯で、援軍に来てくれません。上月城は攻め落とされ、鹿之助も捕らえられます。そして鞆へ向けて護送中に、備中の阿井の渡し(高梁市)で殺されてしまいます。天正6年(1578)7月17日のことです。

鞆には当時、織田信長に京都を追い出された、室町幕府最後の将軍、足利義昭が鞆幕府を置いていました。鹿之助の首は将軍の首実検(手柄を確認するための検視)に差し出すために、鞆に運ばれて来ました。首実検の後、心ある者によって静観寺の門前に墓標が立てられたのがこの首塚なのです。

子供の頃、私も絵本で鹿之助の物語を知っていたので、有名な鹿之助の墓が鞆にあるのが誇りでした。ところがこの話は史実ではないのではと疑問視する歴史学者がいます。鹿之助は実在の人物ですし、阿井の渡しで殺されたのも、鞆に足利義昭が滞在していたのも事実です。ところが首が鞆に運ばれて来たかは疑わしいとするのです。

疑問視の根拠の一つには、江戸時代に書かれた数々の書物に、鞆のほとんどの伝説が書き残されているのに、首実検の話だけが全く出てこないことが挙げられています。このような有名なエピソードを書き落としているのは、確かに不思議なことです。でも、首実検は史実だという説もありますので、本当はどうなのかは分かりません。もし、首実検の話が作り話だったとすれば、いつ頃、誰が何のために創作したのでしょう。

江戸時代も半ばを過ぎると、武士道は最高の道徳だと賛美されるようになります。主家の再興に命をささげた鹿之助は、武士道の手本だと頼山陽などによって絶賛され、改めて脚光を浴びます。その風潮に便乗して江戸後期に創作された伝説らしいのです。

中世から船による交易で繁栄した鞆の港も、18世紀も終わり頃(江戸後期)になると、近隣の新しい港にお客(船)を奪われるようになります。そのため名工を招いて波止場を築いたり、町民自身による港の浚渫(しゅんせつ)をしたりして、お客の誘致に懸命の努力をします。また、鹿之助の首塚は、お客を引き留めるための新たな観光名所になったと思います。港の繁栄の回復には土木工事によるハードだけではなく、人の心をひきつけるソフトの開発にも努めたと考えられるのです。

現在、各地で様々な町おこしが行われていますが、この江戸時代の時流に即した発想と、活力あふれるたくましさは参考にならないでしょうか。

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