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明治と年号が変わる前年のことです。慶応3年4月23日午後11時頃、鞆の東南はるかの沖合で、蒸気船同士の衝突事件が発生しました。
霧の深い夜で互いに発見が遅れ、あわてて回避しようとして操舵を誤ったようです。880トン余の大きい船に、170トン足らずの小さい船が二度ものしかかられたので、とうとう沈没してしまいました。
この沈没した小さい船こそ、幕末の英傑、坂本龍馬が率いる土佐海援隊が乗り組んだ「いろは丸」だったのです。長崎から大坂まで貨物を運送する途中でした。
翌朝、鞆に上陸した龍馬は事件処理の談判を始めます。しかし、相手が悪かった。なんと徳川御三家紀州藩の軍艦「明光丸」でした。御三家紀州藩にすれば、土佐藩御用と名乗ってはいるが坂本龍馬など眼中にありません。
今でこそ龍馬の名を知らぬものはいませんが、当時は龍馬も才谷(さいたに)梅太郎という変名を名乗らざるを得ない浪人者でした。
談判が進展しないまま「明光丸」は4日後、長崎へ向けて出帆してしまいます。取り残された龍馬は御三家に挑む決意を持って長崎まで戻ります。

長崎まで戻れば、土佐藩の後藤象二郎(土佐藩重役、後、明治政府の大臣)や薩摩藩の五代才助(明治時代には五代友厚と称し、大阪商法会議所などを創立した政商)などの援護を得ることになります。
龍馬自身が勉強していた万国公法(ばんこくこうほう 国際法)をちらつかせて、巧妙に談判は継続されます。さらに龍馬は長崎にこんな歌を流行らせます。「船を沈めたその償いに 金を取らずに国を取る」。龍馬は世論までも味方にしたのです。
時まさに明治維新前夜です。その微妙な時代のプレッシャーを感じて、紀州藩は8万3千両余りの巨額の賠償金を約束させられます。
この8万3千両は米価をもとに換算すると数十億円にもなります。このうち3万両が船の代金。 残りの5万両が積荷の代金だとされています。乗組員の証言では米と砂糖を積んでいたというのですが、「いろは丸」は170トン足らずの小さな船ですから、5万両分の米、砂糖はとても積めません。
龍馬は土佐藩の依頼で最新型の小銃、ミニエール銃を400挺積んでいたと主張しています。これらは談判記録や示談書類に明記されています。
昭和63年、鞆の町おこしグループ「鞆を愛する会」を中心に海底調査が始められました。そして沈船が奇跡的に発見されます。
引き上げられた鉄片がNKK鉄鋼研究所で分析調査され、英国製の蒸気船「いろは丸」のものである可能性が高いことが証明されました。船の部品、茶碗、石炭などが引き上げられ、鞆港の「いろは丸展示館」に現在展示されています。
海底というタイムカプセルから、120年の時を経て出現した品々です。ところがお目当てのミニエール銃はかけらも発見されませんでした。米や砂糖のように溶けて流れるものではありません。積んでもいなかったミニエール銃をネタに紀州藩から巨額の賠償金を巻き上げたことになります。
坂本龍馬の機略と反骨精神の物語です。
龍馬が談判の経過を愛妻、お龍さんに報告した手紙が現存していますが、その宛名に「お龍殿」とすべきところ、なんと「鞆殿」という変名が使われているのが、また謎です。

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