
|

弓がキリキリと引き絞られます。「ネーロタ、ネロタ、一の丸狙ろた」。大勢ではやし立てるような掛け声が、緊張の高まりを感じて静かになった。その一瞬、ブルンと弦が鳴って、28メートル先の的がハッシと射抜かれます。わっと歓声があがり、拍手が後山にこだまして響きます。鞆のお弓神事のクライマックスです。
やがて大きな的の下から、矢取りと呼ばれる幼児が矢を回収して帰ってきます。稚児(ちご)化粧をして、酒が一升も入ろうかと思える瓢箪(ひょうたん)と大きな巾着を腰にくくり付けられ、頭の倍はありそうな大きな鈴を背負っています。バランスがとりづらいので足下がおぼつかないまま、背中の鈴を鳴らして走る姿は満場の微笑を誘います。
年頭にあたり悪鬼を射払い、新しい年の平穏を祈る弓の祭りは全国的に存在するのですが、鞆の八幡神社(沼名前神社境内)のお弓神事は大名家の弓始めの儀式作法をかなり忠実に伝えていると思われます。 |
先ず、弓を射る2人(大弓主と小弓主)には「従五位の下」という官位が授けられます。大名クラスの上級武士の官位です。2人の弓主は侍烏帽子(さむらいえぼし)をかぶり、素襖(すおう)に長袴(ながばかま)という上級武士の正装姿です。
弓主にはそれぞれ小姓、矢取りが各1名従いますが、やはり侍烏帽子、素襖に半袴(はんばかま)という下級武士の正装です。素襖は胸元を革紐で結ぶ、中世からの古式に沿った礼服なのです。
これらの衣装は藩から下賜されていました。矢を納めておく矢筒には藩主阿部家の家紋が大きく印されていますので、これも下賜品です。こうしてみると官位にしても衣装からしても、藩主の名代として執り行う行事であったことをうかがわせます。
弓始めの歴史は大変古く、『日本書紀』の大化3年(647)1月の記事に朝廷で行われたことが記されています。平安時代の貴族の遊びから、鎌倉時代には武士の武芸を兼ねた行事になります。江戸時代には瀬戸内沿岸などで、大勢で弓を射る百手(ももて)といわれる庶民の祭りに受け継がれます。
内海町の田島八幡社の百手神事や、尾道沖の百島八幡社のお弓神事などです。これに比して鞆のお弓神事は武芸としての色合いが濃いのです。
鞆のお弓神事に選ばれた者は七日前から(現在は前日から)家族と別居し、食事も別にして精進潔斎に努めます。 |
当日はワケギとアサリのぬたを食べるのが恒例となっています。また前日、各弓主は酒一升、アサリ一升を神社に奉納するのも昔からの慣わしです。
大弓主と小弓主はそれぞれ小姓と矢取りを従えて、2組で競う形になっていますが、勝敗を問われることはありません。大きな的の裏面に鬼という字の頭に角がない字が書かれており、あらかじめ観衆にも示されています。
これは甲、乙、ムという3つの文字が組み合わされた文字で、甲乙なし(勝ち負けなし)を意味しています。今年1年は争いごとのないようにという祈りが込められているのです。
このお弓神事は旧暦1月7日に近い日曜日に毎年催されていますが、今年は2月13日の午後2時から、沼名前神社の境内で執り行われます。 |