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| 今も残る常夜灯 |
福山駅前から鞆鉄バス「鞆港」行きで約30分。終点で降りると、そこには江戸時代の港が目の前に開けています。昔は、秋になると千石船
(せんごくぶね) が北国からの物資を満載して、続々と入港していました。また、その物資を目当てに九州や四国からも多くの商船が港を埋め尽くし、鞆の町は大変にぎわっていました。
千石船と呼ばれた大きな白い帆の木造船は当時としては最大級の船でした。徳川幕府がそれより大きい船の建造を許さなかったからです。そのような大型船が出入りするために必要な港湾施設が、江戸時代へタイムスリップしたかのように、そのままに残っているのが鞆の港なのです。一晩中あかりが灯されていた常夜灯、コンクリートは使わず、岩石をみごとに積み上げた防波堤、長い竿石を積み重ねた石段
(がんぎ) 。今朝も外国からの老夫婦が白壁の土蔵の陽だまりに腰を下ろして、のんびりとこの風景を眺めていました。
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阪神地区から下関を経由して北国までを行き交いする千石船を北前船
(きたまえぶね) といいました。阪神地区から木綿、銘酒などが運ばれ、鞆からは畳表、鉄釘などが積み込まれました。北海道からは昆布、〆粕
(しめかす=畑の肥料) などの海産物。山形や新潟からは米が運ばれてきました。産地で安く購入し、消費地で高く売って利ざやを稼ぐ、北前船そのものが移動商社なのです。一航海で千両
(数億円?) もの利益が得られることもあったといいます。鞆ではそれを四国や九州の商人との間で中継売買して儲けていました。
全国的な物資の流れの大動脈を担っていた北前船が入港すると、商人は当然はりきったことでしょうが、歓楽街がにぎわったことも容易に想像できます。この歓楽街でにぎやかに歌い踊られ、今に伝わるのが「アイヤ節」です。民謡研究家の町田嘉章氏によると、この「アイヤ節」は長崎県田助港の酒盛り唄「ハイヤ節」が北前船などによって全国の港々に広まったうちの一つだそうです。「津軽アイヤ節」、「佐渡おけさ」、「牛深ハイヤ節」(熊本県)、「鹿児島ハンヤ節」などもこの流れです。船は多くの物資だけではなく、文化までも全国に運んでいたわけです。
鞆の沼名前神社の境内には玉垣がたくさんあります。その石の柱一本々々に寄進者の名前が刻まれています。山陽筋はもちろんのこと、 |
遠くは近江八幡
(滋賀)、大阪、徳島、宇和島、対馬、日田 (大分)、美々津 (宮崎) と西日本全域に及んでいます。北前船で財をなし、加賀百万石の御用商人に成り上がった豪商、銭屋五兵衛の本家、銭屋與八郎も名を連ねています。鞆の商業の範囲がいかに広く、いかに強大であったかがうかがえます。 玉垣には商人だけではなく、歓楽街の遊女の名も数多く見られます。遊女でも最高級の大夫
(たゆう) でなければ寄進する社会的地位は認められなかったでしょう。大夫は詩歌管弦はもちろん、書、茶道など高い教養を身につけていたそうです。彼女たちも、また彼女たちの陰で浅ましい境遇に泣いていた多くの遊女たちも、鞆の港のにぎわいを支えていた陰の功労者だったのかもしれません。
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